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下関のご紹介
下関のご紹介
下関ってどこにある?
下関は、本州の一番、西の端にある山口県で一番人口の多い市です。
九州と本州の玄関口であり、国内物流の拠点としてまた、東アジアとも地理的に近いことから、古くから、国内外の人や物が行き交う交流都市として栄えてきました。
平成17年に、下関市、豊北町、豊田町、菊川町、豊浦町の(旧)1市4町が合併、海も山も都市もある、新たな下関市が誕生しました。
歴史の舞台「下関」
交流拠点であった性格上、下関はさまざまな歴史の転換点の舞台となってきました。
- 武士社会の幕開けとなった「壇ノ浦の合戦」
- 宮本武蔵と佐々木小次郎の「巌流島の決闘」
- 攘夷の放棄と近代化のきっかけ「下関戦争」
- 明治維新の発端といわれる「功山寺決起」
- 近代国家へと脱皮をとげた「下関条約」
などなど、市内各地で日本の歴史に想いを馳せることができます。
ふくの本場の起源
下関といえば ふく(河豚)を思い浮かべる方も多いと思いますが、下関がふくの本場となった起源をご紹介します。
もともと下関では、ふくが多くとれていて昔からふくを食べる習慣がありました。
しかし、ふくの毒にあたる武士が多かったため豊臣秀吉がふく食を禁止、それ以降、長い間ふくはおおっぴらには食べることができない魚でした。
ふく食の解禁
明治二十年、初代内閣総理大臣である伊藤博文が下関の「春帆楼」という料理屋に来ましたが、不漁で魚がなく、ふくしかありませんでした。
「なんでも良いから魚を出してくれ」と言われた女将さんが、お手打ち覚悟でふくを差し出すと、「こんなに美味しいものがあるとは」と感動。
山口県でのふく食が解禁され、下関に多くのふく料理店ができました。
失われた宝剣の伝説
日本の三種の神器の1つである宝剣「天叢雲剣(草薙剣)」が、
下関に眠っていると言われているのをご存じですか?
現在の関門海峡で、源平合戦の壇ノ浦合戦が行われた際に三種の神器が入水。
鏡と勾玉は見つかりましたが、宝剣だけは今にいたるまで見つかっていないそうです。
失われた宝剣は形代(分身)であると言われていますが、
下関に自然災害が少ないのは何か不思議な力によるものかもしれません。
いにしえのロマンに想いを馳せながら、関門海峡を眺めると、また違った趣を感じられます。